こんなお芝居が観たくて大衆演劇に通うのだなあと思った『忠治一人旅』三桝屋@尼崎遊楽館2022.1.22
「忠治一人旅」は、北関東の大侠客・国定忠治が赤城の山を降りて、役人に追われながらの旅の途中に起きた出来事を描いたお芝居。
もとを辿れば新国劇、浪曲、講談など数々の名演があり、大衆演劇でも「忠治と山形屋」などのタイトルで、いろいろな劇団で演じられている定番中の定番狂言です。
何度も観ているので、今、わざわざ選んでは観ないな〜という、お芝居の1つでした。
今年1月に尼崎遊楽館で観た三桝屋の「忠治一人旅」は、そんな食傷気味の思いが覆る、とても楽しく、心に染み入るものでした。
序幕の赤城山の場面。
「赤城の山も今宵限り…」の名台詞で知られる場面です。
隆盛を極めた国定一家の終焉。
忠治を真ん中に子分たちがかしこまり、山を渡る雁の声に聞き入る。
ここで、どんな経緯で赤城の山に立て篭もることになったかを忠治が語るのですが、実に朗々と、淀みなく、謡うような語りで、聴き惚れました。
寂しさが極まったところで、おむもろに忠治が刀を抜き、仁王立ち。
「加賀の国の住人、小松五郎義兼が鍛えし業物。万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ生涯てめえという、強え味方があったのだ…」
と、これまた有名な台詞を言うのですが、
市川市二郎さん演じる忠治は違った。
演じ方を少し、変えていました。
わたしは、この演じ方(解釈)が、とても腑に落ちて、忠治の孤独がより沁みました。
何気ない、僅かな改変なのですが、元々の「忠治」を損なうことなく、さらに納得のいく忠治像に。
この日は決して多くない客席でしたが、全員が全員、大きな拍手。声こそ出せませんが、みな「ええもん見た!」と、興奮。
序幕だけで「ああ今日来てよかった」と満たされた感がありました。
序幕は、ほぼ忠治一人の見せ場でしたが、ここから先は、劇団全員でお芝居が作られていきます。
第二場は、序幕から一転、舞台は町中。
忠治に助けられる百姓を演じた女性(お名前わからず)の、演技のうまさに唸りました。
はじめは「やくざ者は嫌いだ」と忠治を訝しげに見ていたのが、万策尽きて、藁にもすがる思いで、忠治に身の上を打ち明けるとき、粗末な着物の裾を丁寧に直し、両の手を地面に揃えて、身体を丸めるように、頭を下げる。
この仕草に、女性の心の痛みと窮状が見えるようで、胸が詰まりました。
それを受け止める忠治の義侠ぶり。
第三場は、お馴染み「山形屋」の場面。
ここでは山形屋藤蔵演じる真珀達也座長の体を張った悪役ぶりが秀逸。悪いのにどこか憎めない山形屋。愛嬌と色気があり、新国劇の緒形拳さんを彷彿させられました。
忠治の凄みを表すには、忠治本人はもちろんですが、相手役の山形屋にもかかっているのです。
忠治の「要求」がエスカレートするほどに、山形屋のリアクションも増幅。お腹の皮がよじれるくらい笑いました。
そして大詰め。暗がりの中、ドンドンドン…と、太鼓が鳴り響き…
幕が閉まって、時計を見ればジャスト1時間。お見事。
周りにいた方と「面白かったですね」と思わず言い合ってしまいました。
「忠治一人旅(忠治と山形屋)」、こんなにいいお芝居やったんや。
BGMも効果的で、劇伴に動きが合っていて(合わせていて)、テンポが良く、忠治などはまるで踊っているかのよう。
半年経った今でも思い出せます。
ストーリー自体がシンプルなので、絵になる場面や、胸に迫ったセリフなどが、余計記憶に残りやすいのかもしれません。
何度も演るうちに練られて、この形に完成されたのだろう三桝屋の「忠治一人旅」。
「こんな風情のお芝居が観たくて、大衆演劇に来てるんだなあ」
そう思いました。
「定番」と言われるお芝居は、やっぱりよく出来ている。
それらはどうして、どうやって「定番」になり得たのだろう。
物語の良さだけではなく。真摯な演出と演技によって息が吹き込まれ、時代を超えても生きていく。
簡単じゃなく、奇跡に近いとさえ思います。
ちょっと話が飛躍してしまうかもですが、ウェブ版「カンゲキ」の連載「舞台裏の匠たち」の丸床さんのインタビューの言葉を思い出しました。
今、大ちゃんも、太一くんも、天才って言われるじゃない。だけど当時の稽古を見ていた俺からすると、天才じゃなくて、努力の人。あれだけしごかれりゃ、上手くなるって。 だから、大ちゃんも、太一くんも、同じ曲を踊ってても、何回でも観たくなるの。
三桝屋『忠治と山形屋』
もう一度観たくて、公演先の劇場が発表するお外題を気にしながら、どうか行ける日に当たりますようにと願っているところです。