風雪よよよ旅

大衆演劇 旅芝居 寄席的なものの旅

役者・市川英儒座長(優伎座)の気迫(お芝居編)

今年の3月、鈴成り座。市川英儒座長の誕生日に合わせた特別公演は、

個人舞踊から幕が開いた。

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市川英儒座長 20200324@鈴成り座

「Stay Dream 2012」

これから始まるお芝居のプロローグのような、英儒さん流、命の讃歌だ。

桜春之丞座長(劇団花吹雪)からの贈り物という、夜景をまとうような着物で。

 

 

そして、第2部お芝居。

2時間近くの長尺が、あっという間だった。

 1人の渡世人の一生を追ったお芝居である。

ずっと演りたかったお芝居ですと語っておられて、

兄である市川市二郎座長(劇団三桝屋)が客演で来られていた。

 

英儒さんの役への意気込みがみなぎっていた。

序幕、妻を殺された時の嗚咽。

目に入れても痛くないほど可愛がっていた幼い娘がいないと気づいた時の、狼狽。

第3景、仇を見つけた時の怒声。

娘を探し続けた歳月や飲んだ涙が、全部声になって吐き出され、

聞いているだけで胸が潰れそうになる。

そうして、序幕では若者だった男が、場面ごとに歳を重ね、

大詰めでは年老い、白髪になっている。

ーー 花道から登場、場の空気が一転する。

破れた菅笠をかぶり、とぼとぼと歩いて来る男。

江戸から明治。時代にも取り残され、運命からも見放され。

それでも、愛娘を探すためだけに、生き延びてきた。

眼だけは少年のよう。諦めちゃならねえと、必死で命をたぎらせている。

男はやっと、悲願を果たす。

かつて行きずりの僧に言われた「娘には会えない。お前の命は長くない」

その言葉通り、運命の糸車に翻弄され続けてきたが、

最後まであらがい続けた男の"勝利"である。

男は一人、満足げに震える手でタバコに火をつけて・・・

 

終演後。汗まみれで口上に出てきた英儒さんを、

待ってましたとばかりに、大きな拍手が送られる。

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市川英儒座長 お芝居の扮装での口上 2020.3.24@鈴成り座

笑顔が見えたので、ご本人的にも手応えを感じられた様子だった。

 

お芝居では、市川実蕾さん(劇団華)に惹きつけられた。

28歳。初役とは思えないほど、仇の女役--本当は違うのだが、結果的に仇になるという難しい役--を、演じきっておられた。

娘役の市川静乃さんは、もう、娘そのもの・・・

男が探し求めた"光"そのものだった。

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市川美蕾さん(後)市川静乃さん(前)2020.03.24@鈴成り座

 

市川市二郎座長は、やはり2年前の英儒さんの誕生日公演にも客演されていて、その時のお芝居「忠臣蔵」の、片岡源五右衛門役が忘れられない。

今回のお芝居では大詰めの場、女郎屋の主人。演技が自然すぎて、過去の世界から実在の人物を連れてきたんと違う?と思うくらい、お芝居の世界に溶け込んでいた。

声がまた良いのだなあ。。落ち着いて、張り上げない。のに届く。鍛えられた舞台人の声。

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劇団三桝屋 市川市二郎座長 2020.3.24@鈴成り座

 

観終わった後、もう1回観たい!と思ったけれど、

英儒さんは慎重かつ「特別」を大事にされる方なので、そうそう演られないかもしれない。。

 

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市川家若手大集合 2020.2.24@鈴成り座

 

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シークレットゲスト 朝陽政次座長(劇団鯱)2020.4.24@鈴成り座

 

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優伎座メンバーとゲストによる群舞 2020.4.24@鈴成り座

 

早く書かないと忘れる(ネットへのアップは4月以降ならばOKとの座長のお言葉)と思いながら、1ヶ月も経ってしまい、部分部分になってしまったけれど、メモを追いながらなんとか書けた。

書いておきながら、ドキドキしている・・・


役者・市川英儒さんは、いまだずっと遠い遠い存在である。

 

 

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市川英儒座長女形

 

 

  

 

役者・市川英儒座長(優伎座)の気迫(舞踊編)

舞台人の特徴を表す際によく「華がある人」などと言われる。

明るい。存在感がある。華やかである。

自分が舞台人ならば、そんなふうに評してもらえたら嬉しいかもと思う。

 

わたしがいつも惚けて観ている役者・市川英儒座長(優伎座)は、どちらかと言うと影のある人で、目立つのは好きではなく、前に出るのを避けているように感じる。

モノトーンで、冷やりとしたイメージ。

とても不思議な光のある人だ。

光と影の両方が強い。

板の上で生きるという宿命を、自らに課した人だと、観ていて感じる。

舞台に捧げ尽くし、お客さんに捧げ尽くすような芸。

毎回、舞台から客席に向かってダイブしているように思うのだ。

 

立ち舞踊の英儒さんは、1970〜80年代のグラムロッカーのようである。

例えば、この出で立ちで「三線の花」というのが、エキセントリックですごく英儒さんらしい。

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市川英儒座長 20170702@羅い舞座京橋劇場

いつも曲の中に完全没頭し、全身でその曲の世界を表現する。

それは時として、ベタなほどのアクションに。

なのに、どこか冷静で厳格で、、心の熱い部分とせめぎ合っているような。

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市川英儒座長20170702@羅い舞座京橋劇場

叫んではいないのに、聞こえるような気がする。

渾身の仕草で胸をどん!と叩くので、こちらの胸も、どん!と響く。

倒れるまで踊る!そんな覚悟が見えるから、

憑依されて、自分も踊っているような気持ちになる。

この時の客席は熱狂で、わーっと叫んで、泣いてる人もあった。

泣かせる舞踊じゃない。なのに、わたしも途中から泣いていた。

 

 

可憐な女形に定評がある。

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市川英儒座長20170409@八尾グランドホテル

女形では斬新な出で立ちはしない。

古風なこしらえで、ショーのうち必ず1曲、
客席から下駄をカラコロ響かせて登場する。

 

赤使いにこだわりを感じる。

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市川英儒座長20160728@羅い舞座京橋劇場

白い着物で、最後に襦袢の赤をバッと見せる。 


 

古典舞踊では、一転、キリッと古典の顔になる。まるで習いたての少年のように。

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市川英儒座長20151212@オーエス劇場

 袴踊りの「大江戸かわら版」。

英儒さんの赤穂義士の表現には、若い哀愁がある。

ふたたび瓦版売りに戻って「武士の情けに泣いとくれ」 と、
愛嬌たっぷりに泣き真似して、腕の隙間から客席を見て、くすっと笑う。

この時の笑顔はとてもずるい(かっこいい)。

 

歌の心と、独特のロックスピリットが、そこにある。 

 

 

*過去の写真を整理してピックアップしたので日付がだいぶ遡っていてすみません

 

 

「大道芸〜演者と観客のかけひき」2016年のみんぱく特別講演聴講メモ

(過去の書類を整理して電子化するシリーズ)
2016.9.8〜 2016.10.29 国立民族博物館で催された特別展「見世物大博覧会」の関連企画、鵜飼正樹さんによる特別講演の聴講メモより。

 

日本の大道芸をめぐる歴史

幕末〜明治初期 都市の盛り場で盛んに大道芸が演じられる(外国人による記録あり)

1960年以降 道路交通法の施行 大道芸にとって受難の始まり 交通事情の悪化 交通の妨害になる 許可制

1990〜2000年代 大道芸イベント、大道芸ライセンス制(ヘブンアーティスト

 

大道芸とは

「芸の内容」または「芸を演じる場・環境」で定義するのか?

=「演じる場・環境」で定義するとする

  1. 路上・広場など、屋外で演じられる
  2. 舞台と客席が、明確に区分されていない
  3. 芸を演じる前に料金などを徴収しない(お題は見てのおかえり)

 

大道芸の事例

ギリヤーク尼ヶ崎 1930年函館生まれ 

雪竹太郎 1969年 福岡生まれ

 

演者と観客とのかけひきという視点から大道芸を見る

屋外→環境の影響を受けやすく、観客が集中しにくい

演者と観客の距離が近い 境界を作る

入場料を取らない 足を止めさせ、最後にもらう

=駆け引きという要素が強く現れる。非常に面白い

 

準備・支度から大道芸は始まる

「芸」だけではない(ギリヤーク)

楽屋がないため、丸見え

物を置く=自分の場所を作る

期待感を煽る 人だかりは人を呼ぶ

 

大道芸は言葉に頼らない

マイクがない 声が届きにくい 

聴覚を遮断することにより、視覚に集中させる

 

大道芸はその場、環境、ハプニングを芸に取り込む

ノイズが多く、ハプニングはつきもの

それらを取り除くのではなく、芸の中に取り込んでしまう

失敗しないことよりも、失敗をどうフォローするか

 

観客を参加させる

距離が近く、あらが目につきやすい

一緒に楽しむ(ギリヤーク「よされ節」、雪竹太郎「ゲルニカ

 

演者が客席に飛び出す 

たった1本のチョークの線

「境界線」を壊すことで効果を生む

(「念仏じょんがら」、「ムンクの叫び」)

 

大道芸は最後にお金を取る

入場料によって予め囲い込めない

どのようにして気持ちよくお金を出させるか 

投げ銭徴収タイムは素顔での交流の場でもある

 

まとめ

大道芸は、舞台で演じられる芸より、1段劣ったものと見られがち
実際、環境としては劣悪と言っても良いかもしれない
しかし、大道劇人はハンディを逆手に取り、独自の演出法を工夫してきた
舞台に立てない芸人、テレビに出られない芸人が、仕方なく大道を演じていのではない
舞台え演じられる芸より1段劣った芸ではなく、独自の演じ方、楽しみ方ができるジャンル

大道芸を観に行こう
街角空間が豊かになる 人が溜まる=豊かになる

 

 

 

 

 

 

朝だ 芝居だ 緞帳を開けろ

朝だ 芝居だ 緞帳を開けろ
小屋じゃお客が待っている
袖で手を振る恋女房に
照れて笑って 見得を切る
五十年 五百年
小屋じゃこうして 小屋じゃこうして
生きてきた
(「浜唄」の替え歌で)

 

大衆との接点をさがしつづける ”貧乏の美学”〜大衆演劇とは(『旅姿 男の花道』より)

(ショーと演歌) 

では、大衆演劇と演歌は一体どうむすびつくのだろうか。大衆劇団にはなじみぶかい『釜ヶ崎人情』『花街の母』や、大衆演劇のテーマソング『お手を拝借』(船村徹作曲)を作詞したもず唱平は、門外漢であるとことわりながら、

「見せようとする芸術ではなく、見ていただく芸そのものを思考する大衆劇団の舞台には、大衆との接点をさがしつづける、僕の作詞の勉強をさせてもらっている。レコード業界が皮膚感覚をうしなう傾向にあり、演歌がその方向に追随する現在、大衆演劇のすべてを肯定しないが、観客の心をひたすら取りこもうとしする姿勢一点をみても、もっと評価されるべきだ」

と、語っている。また、作曲家の大野正雄は、『邦楽大阪・第四号』の「歌・演歌とは」と題するエッセイに、

「演歌とは即ち”貧乏の美学”なのである。日本の大部分の庶民は昔から、また戦前戦後を通じて皆貧乏だった。その貧乏な生活環境に起きる友情、恋愛、人情の機微といったものの美しさや哀愁を歌ったものが演歌なのである。したがって演歌というからには、必ず何らかの意味で貧乏という背景がつきまとっている」

と、定義づけている。この文章の演歌の箇所を大衆演劇と置きかえても、文意は見事に通じる。(中略)大衆演劇と演歌は、そのアナーキズム的な発生、漂泊、愚直さの背景、送り手のはすかいにかまえる思い入れにおいて、十分にかさなりあう。そんな気がする。

 

(橋本正樹著 『旅姿男の花道』1983 白水社 P.186より)

 

 

 

贖罪の意識

(殺人の罪で服役している人のこと)

一般的に言うと、殺人犯というのは、気が短い人間だと思われがちだが、寮内工場で出会った人たちは、そうではなかった。殺人罪で服役している8人全てが、温厚でおっとりした性格の持ち主だった。耐えに耐えて、忍びに忍ぶので、その挙句に、人を殺めてしまったのであろう。彼らは、たびたび、たちの悪い収容者からの苛めを受けていた。 「おい、人殺し。俺、生きていくのが嫌になったんで、今度、俺を殺してくれよ。一人殺すのも、二人殺すのも一緒だろ」  

 こんな挑発にも、彼らがそれを相手にすることは、ほとんどなかった。

 さらに言うと、殺人を犯してしまった者たちは、他の同囚と比べ、罪を償うという意識が非常に強かった。したがって、作業に取り組む姿勢や日常生活における態度も、きわめて実直であり、指導補助の立場からすると、手がかからない人たちでもあった。逆に、軽微な罪で服役している者ほど、わがままが多く、世話が焼けた。「ションベン刑の収容者には近寄らないほうがいい」という教育訓練工場の指導補助が言った言葉が思い起こされる。

 山本譲司著「獄窓記」第3章「塀の中の掃き溜め」より(P268〜P269)新潮文庫

 

 

2019年振り返り・大衆演劇お芝居編(4〜6)

 

 

8月 劇団鯱@鈴成り座 陽之介&政次祭り「男人情花」

やくざ渡世の義理と人情を描いた定番のお芝居。特別に凝った言い回しはなく、おなじみのセリフが続くのだけど、2人のベテラン(葵陽之介座長・朝陽政次座長)が丁々発止で演じるとどうだろう。言葉の1つ1つが異様な強度で、迫ってくる。演じる人でこうも変わるのかと、圧倒された。

親分が黒いものを白といえば白と言わねばならない渡世の世界。親分が望めば、たとえ自分の恋人であっても仲をとりもち、自分は身を引く。それが渡世人だ。しかし・・・

「わたしとこの子を連れて逃げておくれ。たとえ3日、いや、2日1日半日でもいい。親子3人、川という字で寝てみたい」

望まぬ結婚をさせられた女(美鈴華梨さん)は、毎日が地獄だった。
だからもう死ぬつもりで、最後の願いを真に愛する男にぶつけた。
男はようやく「義理」より「情」を選んで、逃亡をはかる。
すぐに追っ手がかかる。筆頭には男の弟分…

女が死に、男も自ら腹を刺す。そして最後の力で女の亡骸へと這いずって、女の顔についた血を、手ぬぐいで拭う。愛おしそうに見つめ、詫びる。この場面、観ていて胸が苦しくなるほど真に迫った。


終演後、セリフ合わせも立ち稽古も無しで(つまりぶつけ本番)上演されたと言う。「昔めちゃめちゃ怒られながらやってたんで。やってる間にもどんどん思い出すし」と、弟役の朝陽政次座長。「(祭りのメンツにかけて)もう必死」と笑う陽之介座長。ひええ。稽古なしであの舞台とは。いや、だからこそあの緊張感、臨場感。大衆演劇の底力やと思った。

若座長が、彼にとって父と父の先輩の芝居を舞台袖から見て「いつもと違うやり方で勉強になった、思わず泣いてしまった」と明かしていた。

 

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ラスト舞踊「雪女」朝陽政次座長(左)葵陽之介座長(右)
 

 

10月 桐龍座恋川劇団@朝日劇場森の石松

明るい幕開けなのに、すでにどこか悲劇の匂いがする。
そう感じられた時のお芝居は、いい。

序幕、客席通路を陽気に歩いてくる石松(二代目恋川純座長)。振り向いてニカッと笑う。1時間後には、この笑顔はもうないのだ…そんな予感がよぎって、ドキドキする。

浪曲清水次郎長伝」の一節がお芝居になった「森の石松」は悲運の物語である。親分の名代で金比羅代参の帰り、通りかかった都田村で、都鳥一家に30両貸してしまったが最後、命を狙われることに…

 

とびきり明るい性格。剣を持たせば鬼より怖いが単細胞。
清水に戻るまで絶対刀を抜くなという親分との約束を、「ど」がつくほど頑なに守り抜く、滅多斬りにされながらも。

瀕死の身体で、無傷の刀を高々と上げて喜ぶのだが、次の瞬間、途方もない孤独と「死」が、石松に襲いかかる。たった1人で死んでゆく石松が、かわいそうでかわいそうで、観ていられない場面である。

笑いあり、緊張あり。涙あり。
細やかな心理描写で、石松の気持ちが手に取るように伝わってきた。

 

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二代目恋川純座長(写真は別の月に撮影したもの)

 

12月 浪花劇団@羅い舞座堺駅前店「妻吉物語」

堀江六人斬りという実際にあった事件をもとに立てられたお芝居とのこと。
芸者の置屋山梅楼の主人(浪花三之介さん)が、妻(大川龍子さん)の浮気に激怒。酔った勢いで、刀を振りまわしたため、芸者たちが巻き添えに(妻は逃亡)。娘の妻吉(浪花めだかさん)も両腕を落とされてしまう。踊りの名手だった妻吉の運命は…。

 

3度、泣きのヤマ場がある。
1つめは「怒り」。店も家もめちゃめちゃにした母を罵る妻吉。
2つめは「絶望」。獄中の父が妻吉の腕を切ったことを知らないと知って愕然とする妻吉。「うちの腕を返して。片腕でもいい。踊る腕を返して。なあ、お父ちゃん…!」
最後、3つ目は「許し」・・・

妻吉がヤマをあげるたびに「めだか!!」とハンチョウが飛び、大きな拍手が起きる。皆泣きながら。

観終わった後、しばらく惚けてしまう舞台だった。 以前観たのは3年前だったか、その時より演出が強化されていたと思う。

女性がメインで活躍し、その脇を男性陣がしっかり締められた安定感のあるお芝居。主演のめだかさんの演技が自然。まるい声での台詞回しが、心地よい。母親役の大川龍子さんとの大詰めの時の舞台はもう異次元だ。 浪花三之介さんの「狂気」も凄まじかった。

劇中で実際に踊る場面が見たいかも。絶対に素晴らしいはず。

 

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浪花めだかさん

 

 

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